神から人へと回帰する、あらたなる英雄神話譚――――クリストファー・ノーラン監督「ダークナイト・ライジング」

ダークナイト ライジング Blu-ray & DVDセット(初回限定生産)

ようやく見に行ったので自分用メモ。一応ネタバレ注意


















ノーラン・バットマン三部作の掉尾を飾るこの映画。あのダークナイトの続きということで、どのように最後を締めくくるのかが気になっていた。

結論からいうと、クライム・ノワールとヒロイック・サーガを、ぎりぎりのリアリティで融合させた傑作ダークナイトの続きというより、一作目ビギンズの続きといった方がしっくりくるような作品だった。たぶん、監督の意図も、そういうところにあったのだろうと思う。まあ似てるならまだしも、どんでん返しの仕方まで同じとは。うーん。ビギンズよりは上手くやってると思うけど。

まあ平均以上ではあるけど、何か物足りない印象はぬぐえない。傑作のなりそこね、ってかんじで惜しい。

ダークナイトで示された、人間の根源的な悪をエンタメ的に突き詰めていくという思想を、つぎの作品に継承・深化させようとした場合、たとえどんなに陳腐な結末(おそらくはキリスト教の終末論的なもの?)になるにしても、ジョーカーという不世出のキャラクターを出さなければ成り立たない。それはヒース・レジャーの死によって不可能になってしまったので、一作目をもとにしたライジングが誕生したのだろうと思う。ダークナイトでは一切登場しなかったウェイン邸や、バットケイブなどが再建されたのも、一作目の文脈に戻ろうとした結果なのだろう。

さて、このダークナイトライジングは、きわめてまっとうな英雄神話譚として始まり、物語を終えているように見える。神話学者ジョゼフ・キャンベルの薫陶を受けたジョージ・ルーカス制作の「スター・ウォーズ」が大ヒットして以来、こういう英雄神話のプロトタイプをつかったハリウッド映画が量産されてきたから、あるていどこの手の物語に触れてきた人なら――いや、たとえそうでなくとも、このライジングでも、おなじみの光景や象徴をはっきりと見分けることができると思う。脚本術の教本にも一章さかれていることからも、ハリウッド関係者にとっては使いやすいツールなのだろう。要点をパパっと知りたい人は、松岡正剛の千夜千冊 ジョゼフ・キャンベルで検索するといい。

ただ、このプロトタイプを優先した結果、脚本上の齟齬が生じちゃったんじゃないかとも思える場面が多数アリ。

ジョゼフ・キャンベル 千の顔をもつ英雄〈上〉

だが、既視感や齟齬があるからといって、それがすなわち凡百の駄作だということにはならない。「バットマン、かっけえ!」と鳥肌が立つ場面が、何度もある。ようするに本能に訴えかけて、尋常ではない高揚を感じさせるようなつくりには、なっているのである。まあ、細かいことをあんまり気にしない人は問答無用で楽しめると思う。僕も大ざっぱな人間なので、はじめは楽しめたが、のちのち冷静になって振り返ると、アレレと思う場面が多数・・・・・・。ということは、僕が気がついた他にも多くの穴があるのだろうと予想される。


まあ脚本のアラさがしはやめておいて、僕が興味深いなと思った部分を書くことにしよう。

ノーラン監督は、英雄神話の祖型を利用して、おそらく意図的にこの価値観にゆさぶりをかけようとしているのではないか。この英雄譚における価値とは、当然、あまたの試練を通して英雄として成長し怪物を倒す、というものである。

――しかし、そのバットマンに相対する敵が、倒すべき怪物ではなく、もうひとりの英雄だったとしたら?

――バットマンは、すでに試練を乗り越えた英雄だ。それどころか英雄という次元を超えて、神に近づこうとしている。そのために人の苦しみ(=死)を恐れなくなったバットマンが、人間に戻るためには、どうすればいい?

こういう疑問を設定することで、たんなる勧善懲悪、善悪二元論に陥らずに、それを超克する物語を演出しようとしているのではないか、と思ったのである。

物語が進むにつれて、今回の敵キャラ、ベインはたんなる怪物ではなく、一人の少女を守る、叙事詩的な英雄として行動していることが次第にわかってくる。ベインの生涯は英雄神話そのものだ。

であるならば、ぶつかり合うのはバットマンとベインの、英雄神話譚としての主張、強度、感染性が、どちらが上なのか、ということになる。

ベインの主張――混沌による破壊から、秩序による新生へ――フランス革命のような、暴力による革命アンド恐怖政治による不公平の徹底的解消(彼曰くそれがゴッサム市民の希望。まあ、けっこういいテーマだと思う)。そののち、中性子爆弾ゴッサムを滅ぼして、バットマンを苦しませるのだ!(←あれ?と思った人も多いだろう。民衆革命というテーマを突き詰めた方が、絶対バットマン苦しむはず)。ベインの主張がこんがらがっているのも当然。この思想は単に「影の同盟」と、ベインを裏で操る裏ボスから与えられた、うわっつらなものにすぎないことが明かされる。ベインの英雄としての強度は、とたんに脆いものとなる。しかも、革命だのなんだのいいながら、それに同意する市民の姿が全然見えない。しょぼすぎベイン。ベインを影で操ってた裏ボスのやつも、まあ大体おんなじ。結局、どいつもこいつも操り人形というしょぼさである。

一方、バットマンの主張――仮面をかぶれば、みんながバットマンだ。市民たちよ、街を守るため英雄となって立ち上がれ――これも、なんかおかしな主張だと思うのは、立ち上がってるのは警察ばかりで、市民の姿が全然見えないのが原因か。

とはいえ、ベインのしょぼさに比べて、バットマンの英雄神話譚としての主張や強度は明らかに上だし、感染性も高いことは明白だ。バットマンに影響されて、ヒーローとしての自覚が芽生える仲間たちの描写は群像劇風で、新世代を感じさせるユニークなものになっているだけに、警察ではない市民側の視点が欠けているのが、かえすがえすも残念。

裏ボスにもベインにも、同じ思想を共有する仲間がいない。というか、冒頭シーンでなんの疑問もなくベインのために死んでいった兵隊は、ベインのどこにカリスマ性を感じたんだろうか? たんなる恐怖以上の崇拝があるように見えたのだが、そういうカリスマ性が描写されることはなかった。これも残念。ブルースからの寄付金が途絶えて孤児院から追い出された子どもたちが描かれていたから、てっきり庶民VS貴族みたいな構造にするものと思っていたが……。

神話は繰り返されることに意味があるという。神話という源郷に立ち戻ることで、摩耗しきった文明が、新たに蘇ることもあるだろう。しかし、ただ同じ所を周回しているだけでは「影の同盟」のように破壊と創造を繰り返すだけで、進歩がない。そこには理想郷がないのだ。回帰すべき聖なる場所も聖なる象徴も、ない。これでは、いくらゴッサムが破壊されたとしても、その後に建設されるのはまた同じ腐敗したゴッサムだ。フランス革命も、その後に続くいくつかの革命も似たような道筋をたどった。腐敗を暴力で一時的に排除したとしても、さらなる腐敗が政治を覆う。それを知っている現代人にとって、ベインや「影の同盟」の主張はそもそもが根拠薄弱で無意味に見える。

だがそんな文明人の常識など、ぶちこわしてしまうようなベインのカリスマ性と、無軌道に暴走し血を欲する、不公平感に憤る民衆が描けていれば、それも説得力ある主張として映画の中で存在し得たかもしれない。フランス人権宣言という理想が、血の革命の中で現れたように。今現在は理想とは程遠い状態でも、やがて人々が追い求めるべき理想を、ベインたちが示そうとすれば、バットマンとの対立は、より深くなっていったに違いない。

ミルチャ・エリアーデ 永遠回帰の神話 - 祖型と反復

では、バットマンという英雄神話譚は、「影の同盟」の創造と破壊の神話に比べて、なにが進歩しているというのか。

仮面(=ヒーロー)とあまりにも同一化しすぎ、死を恐れなくなってしまったブルースに、仮面を脱いで死を恐れる普通の人間に戻れと迫り、あまりにも受け身である市民には、仮面をかぶれ(ヒーローになれ)と迫るこの物語。ヒーロー否定の物語というほどアナーキーではないが、市民がヒーローとして目覚めることで、バットマンという偉大すぎたヒーローの存在を解体し、それに呑み込まれたブルースを救済していく意図があるのだろうと思う。

バットマンは神――英雄を超越した、唯一の救世主という存在にまで高められてしまっているのだ。常人が耐えられるような重さではない。神が人の苦しみを理解するとも思えない。そしてその神のごとき高潔さは、あのジョーカーのような、サタンのごとき超越的存在を引きつけてしまうことも、わかっている。バットマン――神は死なねばならない。

バットマン解体の総仕上げとして、バットマンは犠牲を払い、英雄的な死を演出する。その英雄譚がもつ影響力と強度を高め、バットマン伝説を終える。偉大なる英雄の死を目の当たりにした市民たちは、もう以前の腐敗したゴッサムシティの住人ではなくなっているだろう。バットマンという伝説は終わったが、今度はその偉大な英雄の神話に影響を受けた、無数の無名の市民による、あらたなヒーローたちの物語が用意されたのだ。腐敗したゴッサムに、立ち返るべき理想、バットマンがあらわれたのである。そのヒーローたちは、おそらくバットマンのような無敵の存在ではないにしても、ゴッサムの腐敗と戦うことに物怖じしないであろう、という希望を見せて映画は終わる。

よくある自己犠牲の話かと思いきや、ちゃっかりブルースは生き残っちゃっている点が、なかなかユニークだと思う。これも、そういうキリスト教的な自己犠牲という価値観にゆさぶりをかけることを狙っているんじゃないだろうか。自己犠牲の神話も、えんえんと繰り返されるだけで進歩がないし。

いったい何回キリストが死ねば、人類は救済されるんだ? みんなでキリストの重荷を背負おうとしないかぎり、救済はけっして訪れない! みたいな話にしたかったんじゃないか。それでみんながヒーローとして立ち上がることで、救世主という重荷を分担することができてブルースは普通の人間に戻れたんだから、キリストみたいに無理して死ななくていいじゃんみたいな。バットマンという神の部分は死ぬべきだが、ブルースという人間の部分は死ななくてもいい。そういう構造にノーラン監督はしたかったんじゃないか。

人間に戻ったんだから、人の苦しみも分かるようになる。だからこそ執事のアルフレッドみたいな仲間たちを、悲しませるようなことはしたくない、というふうに、ブルースの考え方も変わったはずだ。だからこそ生き抜いたのである。民衆のために自分は犠牲にならねばと考えているのなら、それは神――英雄の思考であってふつうの人間の思考ではない。この繰り返される神話の類型の中から脱出しようとしたんじゃないだろうか。

それもこれも(描写が足りないとはいえ)ゴッサム市民がヒーローとして立ち上がったおかげで、何とかブルースはバットマンの仮面を脱ぎ捨てることができたのである。つまりこのライジングは、ブルース救済の物語でもあるわけだ。

単純にハッピーエンドにしたかっただけなのかもしれないけど。これまで恋人から会社からありとあらゆる犠牲を払ってきたんだから、救われないとかわいそうだし。

まあ、とにかく、このバットマン英雄神話譚の継続性、無数の発展の可能性が、「影の同盟」の創造と破壊の神話より成熟したものだということは間違いないだろうと思う。さらには、使い古された神話類型からの脱却を目指すことで、まだ古びていない、新たなる神話――無数の、無名の人々による英雄的な革命――を造形するという試みが行われているのではないか、と思ったしだい。

エーリッヒ・ノイマン 意識の起源史

↑英雄神話は、人類の意識の発達過程を記す痕跡である、うさんくさいが壮大で超面白い仮説を収めたユング派の論文。



ああーいつものごとく、なんだかごちゃごちゃしてるが、もう見直すのも面倒なのでここでやめておこう。いろいろ文句書いたけど、おもしろかった。おもしろくなかったら、こんなに長いこと書かないしね。

全体的にノーラン監督が考えたであろうということの推測というより、僕の願望が入っちゃってるので評論としてはぶっ壊れてると思う。ようするに、非常においしそうなネタがたっぷり入ってる映画なんだよね。しかも不完全なままで種が眠ってしまっているから、もったいないと思う。
 

ダークナイトライジン