リアリズムなどくそくらえ!根源にせまる物語――中村融訳 リン・カーター「ファンタジーの歴史」

ファンタジーの歴史――空想世界 (キイ・ライブラリー)

 なぜわれわれはファンタジーを読むのか? ほんとうはわからない。ほんとうは気にしない。わかっているのは、次のような語句に出会うと、わたしの内部で何かが目をさまし、ぞくぞくして、反応するということだけだ――「タナール丘陵の彼方のオオス=ナルガイの谷にある、壮麗な都セレファイス」(大瀧啓裕訳に補筆)、そこではガレー船が「金色燦然たるトゥーランの尖塔を尻目にオウクラノス河をさかのぼる」(大瀧啓裕訳)のであり、「クレドのかぐわしい密林を、象の隊商が重い足音を響かせて進む」(同前)ところでは「筋模様の入った象牙の柱を擁する忘れ去られた宮殿が、月影の下でつきせぬ華麗な眠りにつく」(同前)のである。

(中略)

 ご自分を試されるといい――「顎鬚をたくわえ鰭を備えるノオリ族が奇妙な迷宮をつくりあげているという黄昏の海を見はるかす、なかがうつろなガラスでできた崖の頂に広がる小塔建ちならぶ伝説の邑、イレク=ヴァド」(同前)、あるいは「黒髪の女性と蜘蛛の巣くう神秘の塔で知られたザモラ」あるいは「影に守られた墳墓の国スティギア」といった文章を読むと、あなたの内部で何かがうごめくだろうか?
 もしうごめくなら、わたしのいっていることは、すでにおわかりだろう。もしそうでなかったら、おそらく本書はあなたと縁がない。しかし、こうしたイメージに応えて私の内部で歌うものがなんであるにしろ、わたしはそれがあってうれしい。

――リン・カーター(序文より)

わかる。わかるぞ!
思わず長々と引用してしまった。それもしかたない。またもや絶版なのである。紹介するのが遅きに失したということだろうか。このアツいファンタジーの通史がもう手に入れることができないなんて。文庫で出てくれたら超うれしいのに。

ファンタジーを心から愛してやまない者にとっては、リン・カーターの言うことにいちいち頷きながら「よくいってくれた!」と、快哉を叫ばずにはいられない。英米ファンタジーの歴史を、まとまってはよく知らない僕のような若い読者にも、その熱は伝わってくる。

彼が熱っぽく語るファンタジーの歴史は、いわゆる大人向けのエピック・ファンタジーヒロイック・ファンタジーの歴史だ。最古の物語ギルガメッシュ英雄譚からざっとウィリアム・モリスまでつながる線を概観し、エドガー・ライス・バローズ、E・R・エディスン、ロード・ダンセイニトールキン、C・J・ルイス、ロバート・E・ハワード、H・P・ラブクラフトクラーク・アシュトン・スミス、ヘンリー・カットナー、マイケル・ムアコックフリッツ・ライバーなどなどなどなど。燦然と輝く無数の幻視者たちを紹介していく。

彼はこう断言する。本来のファンタジーの中核は、これなんだと。
おとぎ話でも子供向けでもない、魔法と驚異と異世界の物語。これがファンタジーの、いや、ありとあらゆる物語の本流であると、それはもう熱く語ってくれる。リアリズムなど所詮、つい最近起こったムーブメントに過ぎないではないか、人類が誕生し言葉を持って以来の歴史がある、この驚異の物語にかなうはずがない、と。まあ、リン・カーターの言葉は過激だが、それもファンタジーを愛するがゆえである。

リン・カーターは、ヒロイック・ファンタジーの中興の祖ともいうべき編集者、作家、評論家。古くは英雄コナンシリーズの編集や模作を行っており、オリジナルのファンタジー小説もたくさん出したが、やはり有名なのは評論家、編集者として英米ファンタジー界を紹介しまくったことだという。

この本は、その総決算ともいうべき著書で、ブックガイドとしても最高だ。
問題はことごとく絶版になっているということぐらいか。それもしかたない。今ではもうすっかり巨匠として定着しているアーシュラ・K・ル=グウィンが「若き魔術師」として紹介されているぐらいだ。時間は過ぎていく。だから今手に入る本を探すブックガイドとしては、ちょっと旬をすぎた感もある。が、訳者の中村融が詳細な読書案内を付しているから、その点安心だ。索引も充実しているし、研究所としても貴重なものだろう。

だがやはり巨匠の作品は残っているから、そこから読んでいくべきだろう。

さらに、ファンタジーの創作法についても触れた章があって、リン・カーターのそれはすこし原理主義的なところもあると思うが、実作者にとっては参考になる記述が多いだろう。

いやー、これを買っておいてよかった。