感動って何なのだろう――フォレスト・カーター「リトル・トリー」と瀬名秀明「八月の博物館」との関連性

リトル・トリー」や「ジェロニモ」にものすごく感動した自分にとっては衝撃的な記事を見つけてしまった。

インディアンの少年の成長を描いたリトル・トリー、英雄ジェロニモの生涯を描いた「ジェロニモ」の作者フォレスト・カーターはKKK(クー・クラックス・クラン)の幹部だった過去があるのだという。

嘘だあーと思って調べてみると、けっこう広まっている……。どうやら本当のことらしい。

KKKとは、聞いたことある人もいるかもしれないが、白人優越主義者で構成される、他民族に対する差別的集団である。えげつない事件をたくさん起こしている大規模な秘密結社で、アメリカ政府からテロリストとして指定されている。目だけ出した、三角頭ついたローブをかぶっていろいろ活動するのです。

たしかに作家の人間性とその本の内容が一致するわけでもない、というのはよく言われていることですが、これはギャップが激しすぎる。なにしろ差別主義者が、インディアンを好意的に描き白人を差別主義者として、いわば悪役として登場させているんだから。

フォレスト・カーターに会ったことはないので、人間性など知るよしもないのですが、KKKという肩書きは強烈です。それで、だまされた、こんな感動など偽物だ、金返せ、と安易に思いはしませんが。

そこで思うのは、感動ってなんだろう? ってことでしょうか。今読んでいる瀬名秀明著「八月の博物館」にも、同じく感動とは何か、と悩む小説家が登場します。
八月の博物館

彼は、感動とは何か探るために、過去に自分がとっていたかもしれない人生の道筋を想像することによって、創作を行っていきます。

カーターにも、そのような想像があったのかも知れません。もし自分が違った人物だったら――KKKという差別主義者ではなく、被差別民族としての自分を描き、人生をやり直そうと、架空の自伝風著作を創作したのかもしれません。とはいえ、カーターが、ろくにインディアンのことを調べずにこの著作を書いていることからも分かる通り、インディアンをリスペクトした上で書かれたものではないことは明白です。ろくに調べずにものを書くというのは、侮辱的ですらあります。それが未熟さゆえではなく、差別者としての自己を拭い去り、ただ自己正当化のためだけにインディアンというアイコンを利用しただけと取られても文句は言えないでしょう。

感動とはなんでしょうか。
涙を流して、ああよかったねとなるのが感動でしょうか。
心が動かされるというのは辞書的な意味ですが、では何に心を動かされているのでしょうか?

小説やドラマでは、それは多分に作為的に感動の場面がつくられます。100人中100人がというわけにはいかないだろうけど、大多数が感動してくれるように仕組んであるものです。

それで僕は、よく考えてみるとなんだかよく分からないうちに感動させられていると感じて、気持ち悪くなることがあります。

結局、涙腺のツボを刺激しているだけなんじゃないかと。

別にそれでいいじゃないか、涙がでりゃ感動でいいじゃないか、まったくその通りです。泣かせる人情話は僕も嫌いではないです。というか大好きです。

でもその感動の種類が、ドラマなどのフィクションでは一元化しているように思えてきて、いったい感動とはなんだろう、と思ってしまいます。

人間はもっといろいろなことに感動できるはずだと思うのです。

八月の博物館はそういう問題に鋭く切り込んだ、すばらしい作品だと思います。