ユング派の泰斗による、大人になれない子どもの分析――星の王子さまとM・L・フォン・フランツ/永遠の少年

星の王子さま―オリジナル版

サン・テグジュペリ星の王子さまを読んだことがなかったので、読んでみた。せつないかんじで、とてもいい。

じつは永遠の少年(プエル・エテルヌス)という題材を扱ったユング派分析家M・L・フォン・フランツの著書を読むため、予備知識のために読んだのである。

なかなか可愛らしい装丁で、これからも折に触れ読むかもしれない。

永遠の少年ってなあに?

永遠の少年とは、ようするに大人になりたがらない子供のことである。子供、といったが、かならずしも年齢が若いとは限らない。

ニートという、マスコミによって広められ、なぜか日本においてきわめて曖昧に怠け者とかひきこもりを示すようになった言葉よりも、より象徴的で、より普遍性がある点で、なかなか良い言葉だと思う。まあ、この言葉も曖昧で小綺麗すぎる言葉だと思うが、本質に触れようともしていない前述の言葉よりは、まだ責任感がある方だと思う。

彼らは理想を求めて上昇していくが、多くは忍耐に欠けるために、現実とのつながりをなくし、失墜していくはめになる。

その自らの影を、たとえば「自分は特別な才能を持っているが周囲に理解されない」といったかたちで、周囲の人々、多くは両親に投影し、影を負うことを放棄する。

それどころか己が影をもつことすら、気づいていないことが多い。

というのも、もしその影に気づいてしまったら、彼ら永遠の少年には死が訪れるからである。その死を成人になるための通過儀礼として、象徴的に迎え入れるか、それとも単なるあきらめだとか、回帰であるとするかは、彼らの自我の強さにかかっている、という。

前者の場合は、個性の実現につながり、生き生きとした自己との、現実とのつながりをもつことができる。

後者の場合は、肥大化した自我が、しぼんだようになり、自分を過小評価し、本来じゅうぶんにできることでも、できなくなってしまう。

おそらく、こうしたことは、誰にでも多かれ少なかれ心当たりがあることと思う。

ニートという言葉がダメダメなのは、そういう種類の、なまけものとかひきこもりの人間を切り離し、自分とは無関係な現象で、社会問題でしかない、ということを強調したいがために利用された言葉だとしか思えないからだ。べつに使うな、というつもりはないが、この言葉のもつ空虚さを考えることを、マスコミは少しでもしたのかな、という思いはぬぐえない。

コリン・ウィルソンも、同じような切り口でアウトサイダーを分析している。一見したところ、社会問題である、と。

しかし永遠の少年は、誰の心にでも存在する。

そうした人々の心を刺激する「ピーターパン」や「星の王子さま」は大ヒットを博している。この心とうまくつきあっていきさえすれば、みずみずしい気持ちを保ち続けることができる。想像力の源泉は、多くはこの永遠の少年というイメージに負うところが大きい。

しかしその側面にはやはり影が存在する。その影ともつきあっていく必要があるように思われる。

まあ、フォン・フランツ女史の鋭い舌鋒は、まるで自分自身ののことを言われているようで、痛いのなんの。危うく自我が崩壊しかけるところだった。というかもう崩壊しまくってるため、今は砂粒だ。

ということで星の王子さまの感想を書くつもりだったのに、ごちゃごちゃいろいろ書いちゃったなあ。
永遠の少年―『星の王子さま』の深層