アラン・ムーア/フロム・ヘル読んだぞ〜

フロム・ヘル 上
※ねたばれあり


















読みすすめるうちに本のかおりが血の匂いへと変容し、その匂いにあてられて、めまいがしてくるような濃厚な狂気――ねじれた理性とでもいおうか――に満ち満ちた、切り裂きジャック幻想怪奇譚である。

アラン・ムーアは、外界に顕現するような魔術(科学技術ともいう)ではなく、太古的な性格を持つ肉体的な魔術に大いに興味を抱いているのか、読後感は肉体派伝奇ヴァイオレンスの夢枕獏に似ていると感じた。意匠の凝りようは荒俣宏とか澁澤龍彦とかそういう系で大変おもしろい。宗教的建築物を結んだレイラインとか五芒星のくだりは、風水大好き日本人にはおなじみなんじゃないだろうか。ガル博士の饒舌とその後の続く一連の殺人は本書の白眉だろう。このへんからページを繰る手が止まらなくなる。

読みやすさに振り切った日本の漫画と違って、読み手にもかなりの想像力を要求する凝った演出・しかけがたっぷりあって、二度三度の読書に耐えうる。ガル博士と一体となって読書したあとには、今度は女の側に立って読書するのもまた一興だろう。そうすればまた違ったアスペクトが眼前に展開してくるはずだ。たんなる快楽殺人者の話が、アラン・ムーアの手にかかると、太陽神と月の女神の神話的な闘争にまで次元を高めて読者の眼前に差し出される。おそれいった。

本書の最大のミステリーともいえる、ガル博士の昇天の最後に現れる女性は、最初、場所と年代を指定しているため歴史上の人物かと思って誰なんだろうと調べていたが、どうもそういう人物はいないようだ。しかし、アラン・ムーアの注解を読み返すうちに、おそらくジュリアを身代わりにしたメアリー=エマ=地母神=月の女神なのだろうと思うようになった。子どもたちの名前がその証拠だが、殺害前のシーンを見ても、家を入れ替わり立ち代りしている男女の顔も判然としないし、人殺しと叫ぶ女性も顔が影で覆われて見えない。ガルとメアリーは面識がないし、すぐさま徹底的に損壊をうけて元の顔はわからない。メアリーはあらかじめ王子から警告を受けていたから、なんらかの対策を取っていたはずだ。決定的なのは、彼女の死後にあたる時刻にメアリーを見かけたという二人の目撃者だろう。そう、またしてもガルの勘違いだったのだ。勘違いだったから、昇天したガルはこの女性の正体がわからなかったのだ。

そして、ガルはこの女性を恐れる。なぜなら彼女は太古の地母神、月の女神の化身でもあるからだ。彼女がガルに吐き捨てるセリフは、ガルの悪魔的行為を非難する意味にとどまらず、月の女神にとって太陽神は悪魔とみなされる、ということも示している。新たなる太陽神が、太古の地母神を悪魔として貶めたように。

さて、それだけで終わったのだろうか。メアリーはかろうじて助かった、ガルは失敗した、それだけですむのだろうか。いや、違う。今度は月の女神の復讐がはじまるのだ。

ガル博士が語っていた、イケニ族の女王ボアディケアが、ローマの男たちが支配するロンドンを黒い地層となるまでに徹底的に破壊したという逸話の巨大な反響が、ここからはじまる。ガル博士が現出せしめた切り裂きジャックの地獄など、比較にならぬほど壮大な規模の地獄が、口を開けるのである。

予言は無意識の領域、つまり月の女神が支配するところから発生する、というのはガルが蘊蓄をかたむけるとおりである。最初の娼婦殺害と同時期にヒトラーの誕生が示唆されるなど、様々なところで世界大戦の発生、大英帝国の死を告げているところからみると、これは月の女神の復讐として解釈してもよさそうだ。そうすると、あの暗い部屋で起こったガル博士の未来の幻視は、博士のいう「原初の育児室、本能の支配と母乳の暴政」の未来ではなかっただろうか。

そして最後は偽予言者リーズの、必ず当たる霊感のない予言――戦争の世紀である20世紀で、帝国は滅び、多くの男たちが死ぬ、という予感をもって、このフロム・ヘルは幕を閉じる。

つまりガル=太陽神=男の象徴は、メアリー=月の女神=女の象徴を儀式的殺人によって封じ込めることができたのか? 理性の太陽でもって狂気の月を繋ぎ止め、聖なる婚姻を果たし、至高に届いたのか? そうではなく、あの最後の場面が意味するのは、月との聖なる婚姻は否定され、ガルの一方的な片思いに終わり、男たちは手ひどい報復をこうむることになる、ということなのではないだろうか。狂気の月が理性の太陽を支配し返し、あの原爆(アトミックボム=太陽神アトゥム)をつくった、との示唆も訳注には示されているように思う。

太陽の重要性に幻惑されて、太陽神こそが至高の存在だと思う人も多いと思うが、たいていの神話では太陽神の他に至高神――つまり創造神――が別に存在するということも指摘しておこう。ガルは太陽神になろうとしたのではなく、すでにその化身であり、そこから月との聖婚によって至高神への階梯を昇ろうとし、失敗した、ということになる。


このフロム・ヘルが、切り裂きジャック譚に名を借りた、壮大な神話的闘争といった意味がお分かりいただけるかと思う。


日本じゃ太陽神といえば女性だけど、そのへんアラン・ムーア的にはどうなるんだろうか。ヴァン・デル・ポストがいう、「雄の女王蜂」なる表現も考えあわせてみれば、西洋のアラン・ムーア的な男と女、月と太陽の争いが、東洋の日本ではどういう決着がつくのか、あるいはどういう闘争が行われているのか、という妄想は尽きない。調べてみると、月が男性で太陽が女性、というところもけっこう多いようだ。



ところでどっかのカルト的デスメタルバンドに在籍してそうなアラン・ムーアのあの風貌は個人的に妙に親近感。バンド活動じゃなくて演劇をしているみたいだが。たぶんバンド活動してたらNEUROSISみたいな音楽性だと思う。というかNEUROSISを聴きながらフロム・ヘル読むと軽くトリップできそう。